Clockwork Angels the Novel Summary(Part6)




第26章


 翌日には、まだ痛みはあるものの、頭の傷の出血は止まったようだった。オーエンはその日一日、自分が寝ていた小屋の中で過ごしたが、誰もそこにやってくるものはいなかった。アナキストでさえ、その日は現われなかった。オーエンがどこにも逃げはしないと確信していたからだろう。そしてレッカーたちはオーエンのことを、まったく気にかけていないように見え、同時にオーエンにとっても信頼できる人々とも思えなかった。
 気がつけば、あの岩場からかなり離れた場所にいた。レッカーたちの拠点である巨大な筏――難破船の集まりには大きなスクリューが付いていて、移動させることが出来たのだ。

 さらに翌日の朝、アナキストはオーエンのところに来た。「おはよう。今日は君に教育を施してあげようと思うんだ、友よ」そう言って彼はオーエンに腕を回してきたので、オーエンは嫌悪を感じ、その腕を振りほどいて言う。「あんたは友達なんかじゃない。よそ者だ。危険なよそ者だ。あんたの教育なんて、受けたくない」
 アナキストは笑って言う。「強制はしないよ。しかし、自由な人間と言うものは、新しい考えを怖れないものだ。君は怖いのかい?」
「いや、怖くない。興味がないだけだ」
 アナキストは意に介せず、寄せ集まった船の間を飛んで歩いていく。後にはついていかない方が良いと思いながらも、オーエンはそれに続いた。なぜこの男はレッカーたちの間に自分をおびき寄せたのか。自分が要とは、どういう意味だろうか。
「君はウォッチメイカーに洗脳されている。アナーキーとは恐ろしい状態じゃない。ただ、リーダーのいない世界なんだ」
「あんたがそれで、何をした? 破壊と妨害だけだ。あんたとウォッチメイカーは両極端だ」
「君はその両極端を知ったわけだ。それで目覚めることが出来たはずだ」
 アナキストはそう言い、船の端まで来て、飛行船が離陸準備をしているのを眺めた。それは彼らの偵察船で、木製の船の上にコーティングを施したキャンバスで出来た幌を貼ったものだった。パイロットの女性がパッチワークの上着を着て、指先をカットした手袋をはめ、幌を膨らませるためにエンジンをかき立てているところだった。船の両端にはバランスをとるために丸い輪が付いていて、幌が膨らむにつれ揺れていた。その飛行船はパングロス提督のスティームライナーと同じ原理で動いているが、その目的はあたりの海域を偵察して、獲物になりそうな船を見つけることだった。一人の助手が係留していたロープを解き、飛行船は離陸していった。
「飛行船は普通、これほど陸地から遠く離れた海の上は飛べない。だが彼女はここを基地として使うことで、発着しているんだ。レールや供給基地は要らない」
 アナキストはその飛行船を目で追いながら、そう言った。
「でも、もし彼女が遠くに飛びすぎて、迷ってしまったら。ここに帰って来られなかったら、海に落ちるじゃないか」オーエンが言う。
「リスクのない人生なんて――生きてる甲斐はない人生だよ。彼女は飛ぶことを楽しんでいる。我々も彼女のその働きの恩恵をこうむっている。そうでなければ、別の方法を探さなければいけないところだがね。まあ、そうなったらそうなったで、なんとかなるだろう。海の自由民は、優秀なハンターなんだ」
 アナキストはさらに進み、貨物船のデッキに建てられた、格子状に組まれた高い足場に来た。その上には錬金術で光る青白いライトがぶら下げられている。その灯りは今は小さいが、燃料を与えればそれは明るい光になり、そしてその光が自分達の船を尖った岩だらけの浅瀬へと導く、偽りのシグナルとなったことをオーエンは知った。
「農場で育ったのなら、木に登るのは慣れているだろう」そう言ってアナキストはそのタワーに登り、オーエンについてくるように言う。オーエンはためらうが、後について登る。
「感じられるかい、オーエン・ハーディ? 安全網もくびきもない。ただ風と自由だけだ。君は完全な自由だ。笑わないのかい? もっと喜んでも良いと思うがね」
「喜ぶ?」オーエンは反駁した。「僕は惨めなんだ。罪のない人々がたくさん殺された。この盗人たちが積荷を奪うために。僕にはもうどこにも行くところがない」
「それこそが完全な自由と言うものだ。君は少し視点を変える必要があるな」
 相手は狡猾な笑みをうかべた。「私ははるか前に、君がバレル・アーバーで眠ったような生活を送っていた頃から、君を見ていたんだ。君には可能性があると思ってね」
「あんたが――僕を見ていた?」
「君の村に身を潜ませるなんて、簡単なことだ。誰も私を見はしない。彼らは周りに何か違ったものがあるなんて、気づきもしないからね。なぜ君はあの夜、君の可愛いラヴィニアが果樹園の丘に来なかったと思う? 彼女は習慣に忠実だからね。寝る前に飲む暖かいミルクの中に、私は睡眠剤を入れておいたのさ」
 オーエンは驚きのあまり、目を見開いた。相手は話を続けている。
「まあ、必要ないことだったかもしれないが。彼女は習慣に外れたことはしないと思うから。だが、言われたことはしなければいけないと思っているリスクも否定できなかったから、念を入れたんだ。彼女があそこに現われたら、君をスティームライナーに乗せることは出来なかったからね――そして、それ以降もなかったわけだ」
「あんたなんか、大嫌いだ!」オーエンは思わず叫んだ。
「そうかい? 何かを感じることは悪いことじゃない。そのおかげで君は、完全に自由になった。私に感謝して欲しいくらいだね」
「とんでもない! そのおかげで僕がどんな目にあったか――あんたは僕の人生を難破させた。あいつらが船を難破させたように」
「あの村で眠ったような平凡な生活を送る代わりに、素晴らしい冒険が出来たじゃないか。それこそ人生だ。それを後悔しているのかい? ウォッチメイカーの囚人である必要なんかない。我々はこれから、皆を解放するんだ」アナキストは遠くを見るような眼差しになり、無意識に襟元のピンを弄びながら、言葉をついだ。
「私はアルケミーカレッジを破壊した。これがまず手始めだ。私たちがアルビオンに戻ったら、また活動を始めよう。眠った人々を起こす目覚ましになるんだ。難しいだろうが――困難な時代には、タフな心が要求される」
「僕はあんたの仲間にはならない! 無謀になることと、自由になることは違う! あんたは狂ってる!」オーエンは身震いしながら叫んだ。
 アナキストは沈んだような、失望の眼差しでオーエンを見た。
「狂ってる? そう、アルケミーカレッジの教授たちもそう言った。私のローブを脱がせ、大学を追放する時に。ウォッチメイカーが私の実験を奨励してくれたと言っても、誰も信じてはくれなかった。私が悪意ある自己愛の塊だと、奴らは言った。そして私を分析し、どこが悪いかを知ろうとし、矯正しようとした。だが私はそんな彼らに軽蔑の思いしか感じなかった」彼の怒りは、剣のように空気を切り裂かんばかりだった。そして片手で塔の骨組みに捕まりながら、空中を一回転した。
「ウォッチメイカーは私を守ってはくれなかったし、自分が何をしたかも認めなかった。後になってわかったんだ。あいつは私を失敗させるつもりだったと。だが自分が何を生み出したのか、その時のあいつにはわからなかったのさ」
 笑いながら、アナキストはもう一回転した。オーエンはもし相手が手を滑らせて落ちてくれたら――もしくは自分が突き落とせたら、一瞬そんなことを考え、次の瞬間、そんなことを思ってしまった自分に恐れをなした。しかしアナキストの手はしっかりと鉄骨を握っている。あたかもオーエンを試しているかのように。
「だけど、あんたは今レッカーたちのリーダーなんだろう? アナーキーには、リーダーはいないんじゃないのか? 矛盾してないか?」オーエンはそう問いかけた。
「連中は私のガイダンスが必要なんだ。だが、それはほんの一部に過ぎない。彼らは自分のことと財宝にしか関心がない。単純な欲望に動かされているだけだ。イデオロギーはないんだよ。でも、君は違う、友よ。君はゲームを進める上で重要なピースなんだ。真の革命は、君のような普通の人が目覚めてこそ、成し遂げられるんだ。派手な声明ではなく、小さなささやきが広がっていくことによって。君はその最初の人間だ。君はヒーローになれるだろう」アナキストは小さく笑いながら言う。
「僕は誰のヒーローでもない。まして、あんたのヒーローじゃない」
 オーエンはそう言いながら、偵察に出ていた飛行船が戻ってくるのを視界に捕らえた。空に蒸気を吐き出しながら、全速力で戻ってくる。その船が鳴らす鐘の音が聞こえた。
「獲物になりそうな船が見つかったんだろうか」オーエンは言った。
「いや、これは違う種類の警報だ。下に行った方が良さそうだ」
 アナキストは懸念をにじませながら答え、彼らは甲板に降りた。飛行船も着陸してきて、まだ幌を膨らませたまま、係留ロープを結んでいる。パイロットが飛び降りてきて、手を振りながら慌てた様子で叫んでいた。
「奴らが来るわ!! ものすごい数よ! みんな武装してるわ!」
「誰が来るんだろう?」といぶかるオーエンに、アナキストは太い眉を寄せながら答える。
「ウォッチメイカーに決まっているさ」

 最初の軍艦が、水平線の向こうから現れた。それは貨物や旅客を運ぶスティームライナーよりも大きく、輝くミツバチが両翼に刻印されていた。それは海の上を、筏が寄り集まったこの小さな町に向かって進んできていた。
「どうやら見つかったらしい」アナキストは細い腰に両手を当てるとそう言い、そして声を上げて、慌てる仲間達に呼びかけた。
「良い機会だ! 剣を抜いて、戦いに備えろ! 君たちは海の自由民だ!」
 レッカーたちは叫びを上げ、剣や棍棒を引き抜いてデッキに集まった。自分の看護役をやっていたザンドリナも肉切りナイフを持ってやってきたのを、オーエンは視界に捕らえた。偵察船のパイロットも長い棍棒を持って、構えた。その武器は水夫達を殴り殺したものと同じものだった。
 アナキストは指令を飛ばした。レッカーたちはあるものは彼に従い、あるものは悪態をついて勝手なことをし、あるものは小さな筏を使って逃げ出していた。ウォッチメイカーの軍艦が雷雲のように空から近づいてきて、そこからはしごが伸び、兵隊達が降りてきた。そして整然と列になって進軍してくる。ウォッチメイカーの順列にしたがって、まず青のレギュレイターたちの隊列がやってくる。
 海の自由民たちは剣を振り上げ、防戦しようとした。整然と列になって進んでくるレギュレイターたちの最前列がライフルに弾を込め、一斉に撃つ。その弾は押し寄せるレッカーたちの間に撃ち込まれ、彼らは血を流して倒れていった。
 オーエンはウォッチメイカーの部隊がこんな殺戮をすることが信じられなかった。スタビリティの数世紀にわたる安定の中でも、こんな武器を開発していて、レギュレイターたちに平然とそれを使用させ、相手を殺していくことができるとは。
 人々は叫び声を上げ、血を流し、倒れていく。流れ弾が飛んできて、オーエンは慌てて船の船壁の小さなくぼみに隠れた。すぐそばに飛んできた弾丸は鉛ではなく、黄金で出来ていた。
 レッカーたちはパニックになり、我を忘れて相手に向かっていく。レギュレイターたちは最初の列が撃ち終わると、脇に避けて次の弾の準備をし、その間に次の列が銃を撃つ。その中をレッカーたちは剣を振り上げて、突進して行った。
 アナキストは大きく息をつくと、オーエンのそばにやってきた。彼の頬は紅潮し、髪は逆立っていたが、怖れているというより、興奮しているようでもあった。彼はいくつかの壷を小脇に抱え、長い剣をオーエンの手に押し付けて言った。
「これを持って戦え!」
 オーエンは戦うつもりはなかったが、剣を返すまもなく、アナキストは駆け去っていった。青警備兵達が続々と軍艦から降りてきて、その数は膨れ上がっていく。レッカーたちは剣や棍棒を振り上げ、銃を撃ち終わった兵に向かって攻撃していった。
 戦いの波が自分の方に向かってくるのを見て、オーエンは安全な隠れ家を探して逃げた。剣を手にしてはいたが、彼らのために戦うつもりはなかった。彼らはロッチ船長や船員達を殺したのだ。これが彼らの「自由」の代償なのだろうか――
 彼は自分の看護人、ザンドリナが血に飢えた表情でレギュレイターたちに向かって突進し、二人の警備兵が彼女を撃ち殺すのを見た。彼女は甲板の上に倒れた。
 別の船のマストから、アナキストが化学物質を詰めた壷を持って現われ、レギュレイターたちの中に投げ込んだ。それは激しい爆発を起こし、兵たちは木の葉のように吹き飛ばされた。
 左側から、上空に止まった軍艦のはしごを伝わって下りてきた赤警備兵の一団が新たに現われた。その近くで、アナキストの投げた爆弾の一つが爆発した。オーエンはその場を逃げ去り、より安全な場所を求めて巨大な筏の上を移動していた。
 空中に、また一つアナキストが投げた爆発性の壷が舞っていた。その下を、偵察船のパイロットの女性が棍棒を振り上げてレギュレイターの一人に向かって突進していた。爆弾が見えなかったのか、爆発を待てなかったのか――二人の間に壷は着弾し、爆発が起きて、二人とも死んでしまった。オーエンは気分が悪くなるのを感じた。
 別の船から、エリートである黒警備兵の一団が降りてきていた。彼らは皆制服の上に赤いサッシュを締め、ミツバチのエンブレムを飾っている。黒警備兵の一行はハッチを閉め、一人の老人をエスコートしてきた。その老人の歩みはぎこちなかったが、一定のペースで、そして特別な黒警備兵を護衛につけていた。彼は腕を上げると、焦れたような声でオーエンに向かって言った。
「今、君に足りないものは何かな、オーエンハーディ」そして老人は笑った。
 オーエンの背筋に冷たいものが走り抜けた。その言葉に聞き覚えがある。それはかつて『スタビリティの前には』と言う本を自分にくれたあの行商人――ただ、今自分の目の前にいる相手は行商人の服装もしておらず、細身の帽子もかぶっていないが――外見は変わっても、あの時の老人だと理解できた。ただ――その扮装をしていないだけだ。
「あなたは、あの時の行商人――」オーエンは剣を下げて、言った。
「私はいろいろなものになっている。そして多くの整理されたリストも持っている」
 老人は答えた。
 黒警備兵達が自分に近づいてきた。オーエンは逃げられなかった。逃げたいかどうかもわからなかった。レッカーたちの中にいるのも、同じように安全ではなかったからだ。
 老人は再び言った。
「私の方針は間違っていないと証明されたわけだ。君は私のものだ」
 老人は周りで起こっている騒動を、まったく気にしていないように見えた。あたかも自分が不死身であるかのように。いや、本当に彼は不死身なのかもしれない――そしてオーエンは突然気づいた。この相手こそ、ウォッチメイカーその人であることを。
 黒警備兵たちがより自分に近づいてきた時、アナキストの投げた爆弾が空中で爆発し、軍艦の一機のエンジンに引火して、爆発の炎ともに海に落下した。しかしウォッチメイカーは顔色一つ変えず、言葉を続けている。
「オーエンハーディ。今こそ君は完全な統制が必要な理由を知っただろう。君は危険な対極を見たわけだから。端的に言わせてもらおう。君はスタビリティを選ばなければならない。元の列に戻るのだ。私は君を見ていた。そして君は役に立つ。君の数々の失敗は、同じようなことを考える他の人たちの気をくじかせることが出来るだろう。つまり、君のおかげでスタビリティは安泰だ。君が失敗してくれたおかげで、もう君のように馬鹿なことをする人間はいなくなるだろうからね」
 その時アナキストが放った爆弾が、あたりを赤い靄の中に包み込んだ。その中で、レッカー達が反撃に出て、レギュレイターたちの不意を付いて襲い掛かっている。ウォッチメイカーは黒警備兵達も応戦に行かせた。老人は自らの勝利を確信しているようだった。
「そこにいなさい。あの邪悪なアナキストを片付けてくるまで」
 そう言うと、彼は護衛とともに歩み去っていった。後に残ったオーエンが自分の命令に従わないとは、まったく疑いもしないように。
 オーエンは剣を投げ捨てた。そしてウォッチメイカーと彼の膨大な部隊がアナキストとレッカーたちを殲滅するために攻撃するさまを、呆然と見た。彼はどちらの現実も好きにはなれなかった。
 なおも戦いが続く中、オーエンは偵察船の中へと逃げ込んだ。





第27章


 どちらも極端すぎる――アナキストとウォッチメイカーは自分を挟んで綱引きをし、どちらかのサイドを選べという。しかし、どちらもオーエンには受け入れられなかった。それで彼は選ばないことに決め、飛行船に乗り込んだ。レッカーたちが獲物の船を探すための偵察用に使っているその船のパイロットは戦いの中、爆発に巻き込まれて死んだ。それゆえ主を失ってふらふらと揺れているこの飛行船に注意を払うものもなかったので、オーエンはそこに乗り込むことが出来たのだ。剣は捨ててしまったので、係留綱を切ることは出来なかったが、なんとかその結び目を解くと、すでにその幌が膨らんだままでいた飛行船は、ふわりと空へ浮き上がった。
 空に固定されたウォッチメイカーの軍艦からはなおも援軍が下りていき、戦いは熾烈を極めた。剣の切る音、銃撃の音、叫び声、爆発の音響と炎、煙が立ち込める中、オーエンはさらに何十人かのレッカーたちが小船に乗って逃げ出していくのを見た。そしてその戦いの激しさと煙の中、最初は誰も飛行船が空に浮き上がったのに気づくものはなかった。
 パングロス提督とともにスティームライナーを操縦した経験があったので、その飛行船を操るのも簡単だった。オーエンはエンジンをかきたて、出力を上げて、その場を離れた。これは盗みだ――自分は飛行船を盗んだ。しかし罪悪感は感じなかった。それが海の自由民たちのやり方だ。ポセイドンで出会った友、グェレーロだったら、絶対同じようにしただろう。彼なら、オーエンを待つこともなく、一人で逃げ去ったに違いない――
 彼は東の方向に向かった。アルビオンのある方向へ。今自分がどのあたりにいるのか、その大陸からどのくらい離れているのか見当もつかなかったが、しかし方向があっていれば、いずれは行き着けるだろう。
 下からは相変わらず、銃撃や爆発の音響が聞こえ、煙が立ち込めている。その中、一人のレギュレイターが飛んでいく飛行船を見つけ、銃を撃ってきた。その弾は左の幌を貫通し、穴を開けたようだった。
「ひどい人生が、もっと最悪になった――」オーエンは呟いた。しかしその穴は飛行能力を失わせるほどのものではなかったようで、彼は出来るだけ早くその場を離れようとした。この船のパイロットは朝の偵察飛行で、燃料をほとんど使ってしまったらしく、残りはほとんどない。せいぜい二時間くらいしか持たないだろうが、それだけあれば十分な距離を稼げるだろう。
 戦いは続き、立ち上る煙が雲のように空に上がっていく。ウォッチメイカーの軍隊はまもなくレッカーたちの本拠を制圧するだろう。しかし、どんな結果に終わるにせよ、争いそのものが、これで終わるわけではないだろうと、オーエンは思った。究極の秩序と、完全な混沌――それは振り子のようなものだ。行き過ぎた秩序は完全な自由を求める。逆も真なりだ。それは振り子のように、揺れ続けるだろう。

 やっと船が安全な場所まで進み、下で荒れる海の波音と風の音しか聞こえなくなった時、オーエンは安堵の息をついた。そして改めて自分がたどってきた道について考え、震えたのだった。昔の彼は、ナイーヴな夢見る若者だった。十七歳の誕生日を指折り数え、ラヴィニアが自分の真の恋人と信じて疑わなかった。母の本で見た世界に憧れ、いつかそこへ行って自分の目で見たいという夢を抱いていた。そして、すべてにおいて楽観的だった。しかし実際に自分の目ですべてを見てみると、自分が思い描いていたものと同じものは、何一つとしてなかった。
 さらに悪いことに、そういったすべての経験の後では、もう満足して自分の村に戻ることは出来ないだろうとオーエンは悟っていた。彼は信じるようにと、育てられてきた。しかし、その信念は崩壊した。ウォッチメイカーに対する彼の信頼は崩れてしまった。かと言って、アナーキズムを信奉することなど、とても出来ない。彼の心はさまよう飛行船のように揺れ続けた。
 それでも生きることはやめられない。自分は生き続けたい。すべての夢が幻だったとは思いたくない。どこか、まだ見ぬ世界のどこかには、自分の夢が、目指す場所があるかもしれない――
 オーエンは船の中を探索した。船には食料やナイフ、難破した船から持ってきたであろう玩具や雑貨の他に、棚の下には、ダイアモンドの袋があった。レッドファイアーオパールやドリームストーンも入っている。これだけあれば、バレル・アーバー全体を買うこともできるくらいだった。
 やがて夜になり、船は飛び続けた。ドリームラインコンパスは、メインの針は壊れてしまい、ただ漠然と北をさすだけだったが、戻り地点の方はまだしっかりと機能していた。少しでも遠くへ行けることを願いながら、オーエンは最後の燃料をくべた。そしてその燃料がすべて燃え尽きると、冷たい火も消えていった。
 エンジンが止まると、幌に開いた穴から空気が抜けていき、船は降下し始めた。オーエンはあらゆる手を使ってそれを阻止しようとしたが、とめることは出来ず、下へと落ちていく。海に衝突して、その衝撃でロッチ船長のようになることを怖れたが、どうしようもなかった。やがて船は海に落ち、その衝撃でオーエンは壁に叩きつけられた。水が入ったボイラーは、もしまだ燃料が残っていたら爆発しただろうが、鈍い音を立てて止まっただけだった。その船の上に、浮力を失ったキャンバスの幌が覆い被さってきた。
 オーエンは衝撃で散らばったいろいろなものをどけ、パイロットのものだった長いナイフを使って、幌を切り裂いた。そしてかなりの部分の幌を切り落とすと、海へ投げ捨てた。オーエンはやっと今、自分がどこにいるのかを知ることが出来た。
 どこまでも続く空に、星が輝いていた。暗い海の中を、ボートは流されていった。





第28章


 飛行能力と操縦能力を失って、今はただの小船となった船は、潮に流されていくしかなかった。そうしてオーエンは何日も漂流した。船の中にあった食料を食べ、時折降ってくる短くて強い雨で、のどの渇きを癒した。どのくらい日がたったのか彼には見当もつかず、またそれが重要なことにも思えなかった。
 あたりにはずっと霧が立ち込め、周りは良く見えなかったが、見渡す限り何もない海であることはわかっていた。その中でオーエンは幾たびか考えた。あの最初の晩、アナキストがラヴィニアの邪魔をしなかったら、彼女はあの時果樹園の丘に来ただろうか。そして自分はその小さな冒険に満足しただろうか。そしてウォッチメイカーは道に外れた自分を、レギュレイターたちを使って、考えられる限り惨めになるような結果に追いやった。ちょっと規範から外れた一匹のミツバチを懲らしめるために。もしウォッチメイカーがオーエンを放っておいてくれたら、オーエンはクラウンシティのきらびやかさを堪能し、満足してバレル・アーバーへ帰って、チクタク酒場でその話をしていただろうに。
 しかし、二人の男はオーエンを巡って綱引きをし、自分の側に引き寄せようとした。自分の理を証明するために。オーエンは二人から逃れられたことに今は安堵していた。
 やがて彼は波の音の変化に気づいた。何かに打ち寄せる音――岸か、それとも岩礁か。その音が大きくなっていき、目を凝らしたオーエンはどうやらそれは岸辺であることを認めた。どこだかわからない。港らしきものも建物も何もない岸辺だが、小船を粉みじんにしてしまうような岩礁ではなく、アルビオンの岸辺だ。
 ある程度まで船が近づいたところで、オーエンは着陸後の資金にするための、ダイアモンドや時計用宝石の小袋だけを持って、残りの距離を泳ぐことに決め、海に飛び込んだ。そしてなんとか岸辺に泳ぎ着き、這い上がった。
 岸辺には人気がまったくなかった。彼は砂浜を上り、陸地に上がった。そこにはただ草むらだけがあった。服は潮にまみれ、空気は冷たかったが、オーエンは足早に歩いていくことで身体を温めようとした。内陸に歩いていけば、どこかに小さな村があるに違いないと。
 やがて彼はわだちのあとのような小道を見つけた。スティームライナーの線路の方がより喜ばしかったが、小さな道でも見つけられたことが嬉しかった。オーエンはその道を歩いていった。あたりには相変わらず霧が立ち込めていたが、やがて彼は広場のようなところに出た。そこにはたくさんの足跡があり、何か装置を設置したような跡がたくさんある。それは軍隊の演習場だろうか、それともカーニバル? 後者の可能性を思いついた時、オーエンの心はなお消しがたい楽天的な望みに踊った。
 オーエンはそこに立って、耳を済ませてみた。しかし風の音のほかは何も聞こえない。しかしその中をついて、小さなはためきが聞こえた。それは空中に舞っている紙の音で、見るとカラフルな色の一枚の紙が草の上を転がっていた。オーエンはそれを追いかけ、その紙の端を捉えると、雨粒のあとやほこりを払い、広げてみた。
『マグナッソン大カーニバル シーズン最後のショウ』
 オーエンは辺りを見回した。そしてまだ新しいわだちのあとを追っていった。彼は疲れきり、お腹もすいていたが、せかされるように早足で歩いていくと、道はだんだん広くなり、やがて別の道と交差する地点にたどり着いた。
 交差点のそばに三件の家があり、その中の一軒の家の前で、がっちりした体つきの女性が洗濯物を干していた。明らかに天気は悪いが、たぶん彼女も楽天家なのだろう。その人のそばに近づきながら、オーエンは手にした紙を広げてかすれた聞いた。
「この人たちは今、どこにいますか?」
 女の人はいきなり現われたオーエンと彼の身なりに驚いたようだったが、答えた。
「カーニバルかい? ちょっと遅かったね。公演は昨日だったよ。今朝、出ていったんだ。でもそれより、熱いスープとお風呂が、あんたには必要じゃない? 良かったら、用意してあげるよ」
 それを聞いてオーエンのお腹は鳴ったが、再びたずねた。
「今朝、出て行ったんですか?」
「ああ。彼らはあっちの方向へ行ったよ。カーニバルのシーズンは終わったんだ」
 オーエンは女の人にお礼を言うと、言われた方へと急いだ。カーニバルの移動は遅いことを彼は知っていた。急げば、きっと追いつける――
 やがて霧が晴れていき、そして彼は前方から賑やかな音のさざめきを聞いた。スロープを下った谷間に、カーニバルがいた。オーエンは色とりどりのパビリオンを見下ろした。
「待て! そこにいるのは誰だ?」
 背後で声がした。振り向くと一人の男が剣をささげてやってきていた。
「トミオ!」オーエンは思わず声を上げた。
 相手は剣を取り落とし、駆け寄って抱きついてきた。
「バレル・アーバーのオーエンハーディ! やっと戻ってきたんだな! これほどすごいマジックはない! 僕もとても敵わないぞ!」
 そして彼はオーエンに何か言う暇を与えず、腕をとって仲間たちに言った。
「おーい。お客さんだぞ!」
 オーエンは勇気を振り絞り、彼らに会おうと思った。フランチェスカにさえも。彼らとともにいる時が、もっとも幸福な時だった――彼はそう悟っていた。
 あごひげを生やした女性ルイーザが駆け寄ってきて、オーエンに言った。
「愛すべき少年が帰ってきたわ。あんたはどこに行ってたの? まず服を着替えて何か食べなさい。それから髪を切らないとね」
 セザール・マグナッソン団長も「よく帰ってきたね」と迎えてくれた。団長は帽子をかぶっておらず、短い黒髪を後ろに撫で付けていて、あの大きな口ひげがない今は、少し違って見えた。
「口ひげはどうされたんです?」とオーエンは驚いて尋ねると、団長は答えた。
「今日はつけなかったわ。もう変装する必要はないから。今はオフシーズンなのよ」
 団長のベストのボタンは開いていて、中から豊かな胸のふくらみが覗いている。
「あなたは――女性だったんですか?!」
「いつもそう。私の本当の名前はカサンドラ。セザールではないの。ただ髪を切って、つけ髭をして、名前を変える。カーニバルのために」
「母はその手のイリュージョンはお手の物なのさ」トミオが剣を手入れしながら言った。
「お母さん?!」
「アルビオンのルールでは、女はカーニバルを運営できないのよ。私のひいお婆さんでさえ、そのわけはわからないと言うけれど、なかなか法が改正されなくて。ウォッチメイカーが定めた法には、こんなばかげた規則がいっぱいいあるわ」
 マグナッソン団長はそう言う。
 やがて軽く踊るような足音がした。フランチェスカの髪は相変わらず黒くて長く、その顔は美しかった。彼女は微かに微笑みながら言った。
「そろそろ帰ってきてくれるころだと思ったわ、オーエンハーディ。どれだけわたしを待たせたら気が済むの?」
「君が――僕を待っていた?」オーエンは不意を打たれ、たずねた。
「だって君は僕を笑ったじゃないか。君は僕をはねつけて、これ以上深い関係は持ちたくないって――縛られたくないって、言ったじゃないか」
「ああ、オーエン。あなたは真面目すぎて、善人過ぎるのね。そこが好きなんだけれど――わたしはあなたを笑ったんじゃない。わたしが小さな村が死ぬまでずっと過ごすことに満足できるって思っていることを笑ったの。捕らわれたくないって言うのは、つまりそういうこと。考えてみて、わたしがバレル・アーバーに落ち着いていられると思って? あなただって、今ではそうじゃないかしら」フランチェスカは小さなため息とともに言った。
 オーエンは空腹でくたびれていたが、それを忘れるほど心が躍るのを感じた。プロポーズそのものではなく、その内容が問題だったことを、彼は考えてもいなかった。なるほど、たしかにあのおとなしいラヴィニアと違って、これほどエネルギーにあふれていて素晴らしいフランチェスカのような女性が小さな村の果樹園の奥さんで収まっていられるとは、とても思えかった。
「逆に、あなたがずっとここにいればいいのにって言う前に、あなたは行ってしまったから。もしここにいてくれたら、わたしはあなたのプロポーズに別の答えを返したわ」
「僕に――ここにいて欲しいって――?」オーエンはやっと言葉を捜した。
 返事の代わりに、フランチェスカは彼にキスをした。

 マグナッソン大カーニバルは、シーズン中はウォッチメイカーから許可されたルートでアルビオンの各地を回り、冬のシーズンオフには彼の統治の及ばない静かな場所で暮らしていた。
 冬のキャンプ地の丘の斜面に、一本のずんぐりしたりんごの木が生えていた。それははるか昔の果樹園の名残で、手入れされないまま育ちすぎたものだった。オーエンがその下に座っていると、フランチェスカがやってきて、その傍らに腰を下ろした。そして空を見上げ、雲を指差していった。
「あの雲は馬みたいね」
「君には見えるんだね――」オーエンは驚きに打たれて、相手を見た。
「もちろんよ」フランチェスカは頷き、そして言った。
「わたしが笑ったことであなたの心を傷つけたのなら、ごめんなさいね」
「いや、僕も自分の考え方に捕らわれすぎていたんだ」オーエンは言った。
「あれから僕は、もう一つの自分の夢を追うためにアトランティスに行った。悪意に満ちたポセイドンシティや、廃墟の七都市、そして水夫たちを無慈悲に殺したレッカーたちを見てきた。それでも僕は探し続ければ、どこかにまだ自分の夢があるような気がしていたんだ」オーエンは首を振り、言葉を継いだ。
「最悪なことは、アナキストとウォッチメイカーが、どっちも僕を自分の駒にするために、僕の運命を翻弄していたってわかったことだ。僕には元々その気なんかなかったのに」
「彼らのようにならなくて、良かったのだと思うといいわ」
 フランチェスカは手を伸ばして、彼の腕を撫でた。
 オーエンは彼らから受けた痛みを思い返すと、納得がいかない気がした。
「彼らは策略をめぐらすのをやめればいいのに」
 彼女は伸びすぎた相手の前髪を額からかき上げながら言った。
「あなたはウォッチメイカーを変えることは出来ない。アナキストも同様だわ。あなたは彼らの理論に賛成できないなら、なぜそう思うのかと問いかけるのは、無駄なことだと思うの。彼らはいつか変わるかもしれない。そうでないかもしれない。彼らのために、あなたが出来ることは何もないのだから、彼らの好運を祈るしかないわ」
「それなら、僕はどうすればいい?」
「アシュケロンの男たちのことを覚えてる? 何をやっても、自分の力で他人を変えることは出来ないわ。ただ背を向けて、その人たちから離れればいいのよ。恨みを持ち続けていると、それは心を犯す毒になっていくだけだわ」
 オーエンは雲を追いながら、彼女に言われたことを考えていた。

 オーエンはバレル・アーバーには帰らないことにした。そしてカーニバルとともに旅をすることにした。ただその一員としてではなく、独立した客員として。フランチェスカが自分と一緒になってくれることを彼は望んだが、それも成り行きに任せることにした。
 ただ好運を祈るだけだ。
 オーエンは鮮やかな赤で塗られたジプシー占いのブースに行き、ねじを巻いた。オートマトンが彼女を動かし、微かな青い光がその頭に宿ると、彼女は目を開いた。
「またあなたに会えて嬉しいわ、オーエンハーディ」
「あなたは眠っていたんですか?」
「夢を見ていたのよ。別のタイムラインの。それは興味深かったわ」
 その返答に、パングロス提督ならきっと彼女と話が合うだろうとオーエンは思った。
「そういうほかの場所には、ウォッチメイカーのような人はいると思いますか?」
「どこの世界にも、父のような人はいるわ」
 オーエンは驚きに打たれて、目の前のはるかに寿命を超えて生かされている老女を見つめた。
「あなたのお父さんが――ウォッチメイカーなんですか?」
「父が、ウォッチメイカーになったのよ。そしてわたしはこんなふうになったの。父はわたしを救おうとしたのだけれど、わたしは悟りを開けるほど十分に生きたと思うわ」
 彼女はそう言い、悟りきったような笑みをうかべた。
「だからわたしはきっとそれゆえに、良い占い師になったんじゃないかしら」
 オーエンは身をかがめた。ねじがゆっくりと戻り、その動きもゆっくりになっていく。
「僕の運命はどうですか?」
 機械仕掛けの手がゆっくりと動いて、タロットのデッキをすべて脇に積み上げ、文字の書かれた、特別な運命カードを一枚取り上げた。
「わたしはいつもあなたの運命を知っていたわ、オーエンハーディ。でも、あなたにそれを聞く準備が出来るまで、待っていたの」
 彼女はそのカードをスロットに落とした。オーエンはそれを取り上げ、書かれた文字を読んだ。
『あなたの庭を手入れしなさい』
 時計仕掛けの占い師はそれ以上の説明をすることなく、動きを止めた。





エピローグ(数十年後のオーエンの回想)


 僕の今までの経験を、本にすることにした。興味を持ってもらえるだろう、ほんの一握りの人たちへ向けて。例えば孫の5歳になるアレインのような――他の孫たちは僕の冒険譚を退屈がるが、この子だけは目をきらきらさせて聞き入っている。その茶色の瞳の輝きを見ると、この子はいつか自分の夢を追って冒険に出かけるような、そんな予感がする。でもそれも彼の人生だ。幸多かれとを祈るしかない。
 自分の夢を追いかける人生はいくつかの危険もある。しかし得るものも多い。かなり昔のことになるが、父が晩年、僕の冒険譚を毎晩チクタク酒場で話していたと聞いて、驚いたと同時に嬉しく思ったものだ。彼には僕を捕らえた熱望の意味を理解できないだろう。それでも最後には、息子を誇りに思ってくれていたのだ。
 本が完成したら、忘れずにアトランティスへ送ろう。一部はアンダーワールド書店のクーリエさんに。いつかあなたの本を書いてと、彼女は言ったから。そしてもう一冊は老パングロス提督に。彼は幾多の蔵書を持っているけれど、僕の本も長いスティームライナーの旅の退屈を紛らわせてくれることだろう。

 僕の庭園には、長い間雨や日にさらされた石の天使像がある。そして庭は広い。オフシーズンのカーニバルの人々の食料を支えるだけでも、かなりの広さがいる。彼らは皆、練習でお腹をすかせているから。力持ちはトレーニングし、ピエロたちはリハーサルを重ね、遊具管理の人々も手入れにいそしんでいる。でも食料だけでなく、庭園の真骨頂はその美しさだ。庭の花々を、僕は誇りに思っている。特に自慢なのは、グラジオラスだ。それはまるでカラフルな花の剣のようだ。もっともその剣では、老いたトミオに敵いはしないだろうが。彼は今でも、熟練した使い手だ。
 秋になると僕は球根を掘り起こし、春になると植える。いろいろな色を取り混ぜて。ミツバチが気ままにその間を飛びまわり、時々色の交配が起こるが、そのままにしている。リスクのない人生など、生きている甲斐のない人生だ――アナキストもすべて間違ったことを言っていたわけじゃない。
 ここから安全な距離にある、遠くのクラウンシティでは、まだウォッチメイカーがアルビオンを支配続けている。自分のやり方が最上と信じて。アナキストがあれからどうなったのかは、僕は知らない。爆発に巻き込まれて死んでしまったのか、正気に戻ったのか、それともより狂気のエリアに行ってしまったのか、それともまだウォッチメイカーと、秩序と混沌の間で綱引きを繰り広げているのか。振り子は揺れる。
 でも僕はもう、そのことに捕らわれはしない。僕には手入れする庭があり、書きかけの本がある。その本が完成したら、ページをめくって、日々を続ける。僕には別の指標があるから。庭にはグラジオラスの花が満開だ。いくつかを切って、夕食のテーブルに飾ろう。

 この冬の避寒地は、レッカーの偵察船に積んであった宝石で買ったものだ。そこには色とりどりの練習用パビリオンが並び、同じくそのお金で買った新しい遊具も、仕上げの色を塗っている最中だ。トミオの小屋からまたいつものように煙が上がったが、規模が小さいので誰も気にしていない。
 息子達や娘達が、空中ブランコの練習をしている。フランチェスカ単独の時よりバリエーションに富んだ、チームプレイを繰り広げている。そのさまはギアが動くように滑らかだが、彼らは時々ふざけながらの即興プレイも取り入れている。何人かの孫達も、一緒に練習していた。真剣に、しかし遊びの延長で。彼らを養い、トレーニングする一方で重要な方針は、彼らを子供のままでいさせること――いずれ自分の道を踏み出すまで。
 僕のフランチェスカは相変わらず美しい。もう空中ブランコはできないと言うが。彼女はその役目を一番上の娘に譲り渡し、そして娘は孫の一人、ケジィアをトレーニング中だ。少女はロープに登り、複雑で危険で、それでも楽しいトリックを練習中だ。高く飛び上がり、空中で宙返りをし、背中にしょった天使の羽根を開く。しかし着地が少し乱れた。だけどそれは練習だから、僕たちは皆彼女に拍手を送った。
 僕は一輪のグラジオラスをフランチェスカに送り、彼女は微笑んだ。でも大きな付け髭をつけたその姿は、若干奇妙な感じがする。ベストスーツは良く似合っているが、シーズン中はボタンを留めて胸を隠さなければならない。一番悲しいのは、彼女の豊かな長い黒髪を切ってしまわなければならないことだった。それでも彼女は美しく、この扮装からも輝き出ている女らしさを、どうしてお客達は気づかないのだろうと不思議に思う。人は自分の見たいものを見るのだ。
 ケジィアはもう一度練習に取り組むが、天使の羽根を畳むのに苦労している。従妹たちはそんな彼女を、笑いさざめきながら見ている。
「もう練習は十分にしたかい?」僕は聞いた。
「カーニバルシーズンは、今週から始まるのよ。できているわ」フランチェスカは答える。
 あと二日で、カーニバルは出発する。村を巡り、クラウンシティへとたどり着くルートで。クロノススクエアでの興行もあるかもしれない。彼らは脚光を浴びるのが好きだ。
 でも僕はあまり注目されたくはない。一番落ち着くのは、カーニバルの仲間達といる時だ。マグナッソン・カーニバルと一緒に旅をして、最初にバレル・アーバーに立ち寄った時、僕は父を訪ねた。父はまだその時には存命で、一人で寂しがってはいたが、僕のいない生活にも慣れてきたと言う。僕は村に留まるつもりはないと言った時、彼は動揺したが、しかし最後には認めてくれた。「そういう定めなんだな。仕方がない」と。
 ラヴィニアは誰か他の人を見つけて、その人と結婚し、家庭を築いた。そして彼女の定義の上での幸福に満足しているようだ。バレル・アーバーの興行に、ラヴィニアは来たことがないが、元々彼女はカーニバルに興味はないのだろうし、僕のことを覚えているかどうかさえ、確信は出来ない。

 このシーズンは、僕はカーニバルに同行しないで、この冬の住処に留まることにした。数ヶ月の一人暮らし――黄金の七都市で過ごしたように。その間、庭を手入れし、本を書こう。僕の記憶は、書かなければいずれ消えてしまうから。
 季節は巡り、過ぎていく。僕はポセイドンシティで盗まれた懐中時計を、買いなおすことはなかった。ここでは昼は明るく、夜は暗い。
 フランチェスカはグラジオラスを受け取り、キスをした。付け髭がくすぐったい。僕は庭に行った。ここには日時計があり、時間を知るにはそれで十分だ。太陽は上り、沈んでいく。その間で、時は刻まれる。
 いにしえの占い師は、最後のねじを巻く前に、僕に言った。
「スケジュールや富で人生を測るのはやめなさい。それは愛と尊敬で測られるものよ」
 愛と尊敬――その意味を僕はずっと考えてきた。巨万の富を求めるものもいる。巨大な権力を求めるものもいる。そして僕のように素晴らしい冒険を求めるものも、アナキストとウォッチメイカーのように、世界を変えたいと欲するものもいる。だけど根底では皆、愛し、尊敬されることを欲しているのではないだろうか。尊敬のない愛は哀れみのように冷たくもなりえるし、愛のない尊敬は恐れのような薄気味悪いものにもなる。僕がそのことを理解するのには、長い時がかかった。しかし今、自分が歩んできた道と素晴らしい家族、友たちを得て、はっきりと認識する。人生で一番貴重なものは、愛と尊敬なのだと。日々を真摯に生きること、寛大に、誠実に――それが人生の指針なのだと。
「あなたは満足してますか?」老占い師がいつか、僕にそう問いかけた。
「あなたがしたこと、やろうとしていること、そしてこれからやるだろうことに、幸せを感じていますか?」
 なかなか複雑で、答えるのが難しい質問だ。でも自分が歩んできた道を振り返り、そして今持っている家族、仲間達、そしてこの地と庭園を思う時、僕は答えられる。
「ええ。幸せです」と。
 僕はグラジオラスの花と、緑の豆やトマト、玉蜀黍や、何本かのりんごの木が植えられた庭を見る。それは僕の新しい果樹園。種を植え、手入れをし、収穫する。
 素敵な庭だ。





おまけ : Neilのあとがき(ポイントだけ)



 小説化は2010年のTime Machine Tour中にKevinと一緒に山にハイキングに行って、具体化した。その後、何度か彼と会い、メールのやり取りもして、構想を決めたということです。ベースになったのは、ヴォルテールのカンディード(もしくはキャンディード)――楽観的な若者が、世間のいろいろな不運は逆境にあいながら、成長していき、最後には「庭を手入れしなければ」と言う悟りに落ち着くというもので、The Gardenの前フリにも出てきますね、カンディード。カンディードの艱難は、オーエンよりはるかに厳しいっぽいですが。そして他にもいっぱい参考文献が出ていますが、ここでは割愛(すみません!)
 ウォッチメイカーは厳しいルールに乗っ取ってアルビオンを支配するが、そこは決して2112の世界のようなディストピアではない。(いわゆる悪の帝国を自由を求めて倒そうとするような、単純な善悪対立にはしなかった)
 Owen Hardyと言う命名は、最初は主人公の名はなく、Our Heroと読んでいた。名前を考えるに当たり、そのイニシャルを残したいと思った。OwenはNeilのお嬢さん、Oliviaちゃんが読んでいた絵本からとり、HardyはBarrel Arborの雰囲気がThomas Hardyの戯曲ぽいから、と言う理由。Laviniaは、Owenの最初の恋人はバニラのフレイバーをイメージしたいと言うKevinに、Neilが考えたVanillaのアナグラム(っぽい。iが一個多い)
 そしてこの世界は多国籍で、いろいろな民族が混在する世界と想定したので、名前も風貌も多国籍。オリベイラ、ヒュング、トミオ、フランチェスカ、グェレーロ(スペイン語の戦士)――どれも英語圏でない命名。オーエンの母、ハンネケ・ラコタはネイティヴ・アメリカン風の名で、それゆえオーエンも肌は浅黒い設定。
 あとはKevinが草稿を送ってきた時の話ゆえ、割愛。(たびたびすみません)





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